

ハロー!ハロウィンのコスプレはいつも「ライオン」ライターのT氏です!
今回は、西鉄ライオンズ特集!【第9話】西鉄ライオンズの幸運のライオン像って知っとる?です。
第9話を最後まで読んでいただけると「西鉄とブリヂストンのつながり」が分かるよ!
「おもしろい」と思ったら右上にある「いいねボタン」のクリックよろしくね!
それではみんなも一緒に・・・レッツ・ライオンズ!!
後楽園球場での勝利の影には一体の「ライオン像」の存在があった!
西鉄ライオンズは1956年から日本シリーズで巨人を破り三連覇しましたが、実は三度とも優勝決定は後楽園球場であり、平和台球場では日本一の胴上げをしていません。地元に残って応援したファンは三度ともラジオやテレビで日本一の瞬間を迎え、感動の場面には立ち会えていません。三連覇中の巨人との対戦は平和台球場で6勝2敗、後楽園では6勝3敗1分けと数字の上では圧倒しています。本拠地での成績は納得できますが、後楽園球場での勝利の影に実は一体の「ライオン像」の存在がありました。
祝日本一を祝うため、東京から運ばれたライオン像(1956年10月23日)
ブリヂストンから送られた幸運のライオン像
三原脩監督と水原茂監督の因縁から「巌流島の決闘」にたとえられて盛り上がった1956年の日本シリーズ、三原脩の「偶数試合必勝」の戦略もあって後楽園球場での初戦は0対4と完敗します。応援団や熱心なファンは福岡から駆けつけていましたが、スタンドの大半は巨人ファンで埋まり、完全アウェーの戦いでした。第二戦の試合、三塁側の西鉄ダグアウト上に一体のライオンの剥製が登場しました。ブリヂストン創業者、石橋正二郎氏が地元球団の応援にと、所有するベルギーライオンの剥製を送り込んだのです。威風堂々とした外見に機械仕掛けで動く大きな口、球場に駆けつけた応援団をもちろん、若い選手たちも「百獣の王が見守ってくれれば百人力だ」と意気上がり、この試合に打ち勝ちました。平和台へ移動しての第三戦には、ライオン像の代わりに、ブリヂストンの久留米本社からブラスバンドが加わりました。ブラス演奏が加わったことで応援は一段と派手になり、球場はお祭り状態。いきなり4点を奪われる劣勢も、十八番となった終盤での大逆転で、救援した新人稲尾投手に初勝利がつきました。西鉄はライオン像が待つ後楽園球場での第六戦に勝ち、4勝2敗で初の日本一。ライオン像が登場した試合は全勝でした。
優勝パレードの先頭で福岡スポーツセンター前を進むライオン像(1956年10月23日)
ブリヂストンが西鉄を応援した理由
選手が東京から凱旋して行われた優勝パレードには、西鉄ニュースカーに続く先頭車両にライオン像が乗せられ、ブリヂストン楽団が乗った西鉄バスが続きました。楽団の演奏する「ブリヂストンマーチ」が高らかに鳴り響く中、三原脩監督以下の選手たちはオープンカーに分乗して市内をパレードしました。なぜブリヂストンが西鉄ライオンズの応援に駆けつけたのか。その理由は2012年秋に発刊されました、中野政則氏著「正二郎はね -ブリヂストン創業者父子二代の魂の軌跡」(出窓社)に詳しく紹介されています。「球団の親会社の西日本鉄道は当時から日本有数のバス会社だった。バスにはタイヤが付きもの、バス会社が経営する球団の応援に駆けつけるのは当然」というのが理由だったそうです。このライオン像は現在、ブリヂストン東京工場がある東京都小平市の中央図書館に寄贈され展示されています。2011年に行われた埼玉西武ライオンズが球団の歴史を振り返るためのイベント「ライオンズクラシック」では、このライオンをモチーフにした「幸運のライオン」ぬいぐるみがグッズになり再登場しました。
優勝パレードの先頭を進むライオン像(1956年10月23日)
次回予告!
いかがでしたでしょうか。幸運のライオン像を通して、「西鉄とブリヂストンのつながり」が分かっていただけたらうれしいです。さて、次回は【第10話】西鉄ライオンズの応援歌って知っとる?【伝説の西鉄ライオンズ】です。お楽しみに。
にしてつWebミュージアム
西鉄の懐かしい写真や動画がたくさんあるので見ていってね♪
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/index2.html
■ライターT氏のプロフィール
2020年4月から西鉄広報課・アーカイブ担当に。
配属後、西鉄社員として西鉄ライオンズの知識が足りていないことに絶望する。
その後、西鉄ライオンズの歴史を猛勉強の末に詳しくなり、みなさんにも西鉄ライオンズの歴史を
「楽しく」「わかりやすく」お伝えしたいと思い、西鉄ライオンズ特集の連載を決意する。
この記事へのコメントはありません。