

こんにちは! コロナ太りしているライターのT氏です(汗)
今回は、西鉄ライオンズ特集!【第4話】名将「三原脩(みはらおさむ)」って知っとる?です。
第4話を最後まで読むと「組織の雰囲気が与える影響力」が学べるよ!
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それではみんなも大きな声で・・・レッツ・ライオンズ!!
名将「三原脩」の誕生
三原脩は早稲田大学野球部で活躍後、1934年に発足した大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)の契約選手第1号としてプロ入りします。俊足・堅守の選手だったのですが、戦争で脚を負傷したこともあって1938年にわずか実働3年で現役引退します。引退後は再度軍に召集され、何度も戦地に赴いています。終戦後は読売グループの報知新聞で「記者」として活動しますが、1947年シーズン中の6月3日、成績不振のに悩まされた読売ジャイアンツの監督就任の打診を受け、合意します。翌年には巨人を戦後初の優勝に導きました。そして1951年1月30日に西鉄ライオンズの監督へ就任。三原脩は、1952年に中西太や球界屈指のスター大下弘の獲得に成功すると、豊田泰光、稲尾和久ら若手有望選手を相次いで獲得し、大下弘を軸とするチーム作りを進めます。そして日本シリーズでは古巣の巨人相手に3連覇を果たし、三原脩は「名将」と呼ばれるようになりました。(三原脩監督かっこいいっす・・・)
名将「三原脩」
南国・九州に合うチームづくり
三原脩は、南国・九州に合う豪快で明るいチームづくりを目指しました。「自由であることからスタートし、やりたいことをやっていい。言いたいことを言っていい。しかし、試合では与えられた役割をきちんとやらなければならない」と、選手個々の自主性を重んじ、チーム内で何でも言い合える空気を創り出しました。(こんな職場は雰囲気が良いはず!僕たちも取り入れてみよう!)
和やかな雰囲気の西鉄ライオンズの選手(1957年)
西鉄ライオンズの遠心力野球
三原脩は「命令ではなく自ら考え行動する時に、選手は最大級の力を発揮する」と考え、自主的な行動を促しました。さらに三原脩は監督として「選手個々の持つ能力を最大限に生かせた時に、圧倒的なパワーが生まれる」ことも知っていました。そのため、選手は自主的な行動をし、監督は選手個々の能力を発揮させる采配を行うことでチームの力を最大化させました。三原脩は、このような野球を「遠心力野球」と名付けました。(僕たちも遠心力野球を仕事に取り入れよう!)
ベンチで寛ぐ西鉄ライオンズの選手(1957年)
大舞台で実力を発揮する西鉄ライオンズ
当時、球界の盟主であった巨人・水原茂や南海ホークス・鶴岡一人(かずと)が創り上げた常勝チームは、いずれも三原が構想したチームづくりと正反対の「求心力野球」でした。「求心力野球」とは、優勝という目標に向かって心をひとつにして突き進む「フォア・ザ・チーム」の理念のもとで規則で選手を掌握し、監督の選手起用・作戦のもとに闘うオーソドックスな野球です。
1956年秋、西鉄ライオンズは水原率いる巨人との日本シリーズ初対決が実現しました。1勝1敗で迎えた平和台球場での第3戦、三原脩がめざした「遠心力野球」が効果を発揮します。敵地・平和台球場に乗り込んできた巨人のベンチは、大舞台を前にして監督・選手の表情はピリピリとした緊張感だけが伝わってきます。対する西鉄ベンチでは、監督をはじめ選手が笑顔に包まれているのです。このシリーズ、結果は西鉄が巨人を4勝2敗で下し、初の日本一になりました。西鉄ライオンズ黄金時代が始まるシリーズで、その勢いのまま日本シリーズを3連覇し、三原脩のめざした「個性」を尊重する明るいチームは完成しました!(僕たちも「個性」を尊重し日本一の職場にしよう!)
球団創設以来初の日本一(1956年)
次回予告!
いかがでしたでしょうか。名将「三原脩」がめざした遠心力野球から、「組織の雰囲気が与える影響力」を学んでいただけていたら嬉しいです。さて、次回は【第5話】神様、仏様、稲尾様って知っとる?【伝説の西鉄ライオンズ】です。お楽しみに。
にしてつWebミュージアム
西鉄の懐かしい写真や動画がたくさんあるので見ていってね♪
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/index2.html
■ライターT氏のプロフィール
2020年4月から西鉄広報課・アーカイブ担当に。
配属後、西鉄社員として西鉄ライオンズの知識が足りていないことに絶望する。
その後、西鉄ライオンズの歴史を猛勉強の末に詳しくなり、みなさんにも西鉄ライオンズの歴史を
「楽しく」「わかりやすく」お伝えしたいと思い、西鉄ライオンズ特集の連載を決意する。
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